あっ!アレは何だ?
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厚木の郊外。黄色い建物と無人販売所に超・長蛇の列。お目当ては玉子サンドだ。画像の日
は平日の14:29。連日、マスコミに取り上げられ、オイラも御多分に漏れずスクーターを走らせ
た次第だが、到底最後列に並ぶ程の暇はなかった。
さて、連日のTV特集番組では、この無人販売所の主の名は「山本幸子」と伝える。聞いたこと
あるな? しかも、オイラの人生のある一瞬で毎日のように強烈に聞かされた名前だ。
「サンドイッチ?」、「山本幸子?」。えっ、あの「(株)ヤマモトヤ」と関係あるのだろうか?
昭和62年4月1日。オイラは神奈川県座間市にある金融機関の支店に配属が決まった。最初
の1年間は窓口業務。朝、決まった時間にヤマモトヤから電話がかかってきた。
「ヤマモトヤですが、今日はいくつサンドイッチの出前頼みますか?」
よくあるセールスの電話だが、こちらには絶対的弱みがある。相手は顧客なのだ。
一旦、外線を保留にして、「サンドイッチ頼む人?」と支店内のオーダー数を取る。通常、手を挙
げる職員などいない。サンドイッチなど、コンビニで好きなアイテムを買えるし、支店の間近に
「相鉄ローゼン」というスーパーがあったから、わざわざ出前などで昼食をゲットする事NGなの
だ。そして、オーバー500円という高価さに加えて、パサパサなパンで普通の具材のサンドイッ
チ。これでは人気などない。ヤマモトヤの担当渉外者だけが義理で1つ注文していた。
時は昭和時代。ナンバー・ディスプレーなどという名器はまだ無い。率先して外線電話を受け
なければならない新人のオイラは、よくハズレの朝電話を受けてしまった。今朝は所長の説教
話も長かったし、月末で朝から電話がひっきりなし。ヤマモトヤの電話を受けると、保留3秒ほど
で
「今日の注文はありません!」
と、キッパリ断ってしまった。当然、苦情の電話となって再度かかってくる。
「今、電話に出た男の人、回りに聞かなかいで断ったでしょう?」
全くその通りだが、お宅のサンドイッチが注文に値しない事も解ってもらいたかった。そして、都
度の勧誘電話は山本幸子・社長自らだったという事も判明した。
一年後。晴れて営業に。担当地区は(株)ヤマモトヤのある準重点地区だった。当然、週に2
回はヤマモトヤのサンドイッチが昼食となる。ヤマモトヤの工場は綾瀬市の大上という住所にあ
った。渉外でヤマモトヤには毎日訪問。コンビニに卸す業態だったので、集金よりは振込、振
替、税金支払い、従業員への給与支払いが主だった。ガッタン、ガチャガチャと機械化された工
場ではなく、銀色のステン・テーブルが並ぶ工場内だ。一斗缶のバターやマヨネーズをテーブル
台に並べたパンに塗り挟む手作業が主なのだ。社長はほとんど現場でサンド作り。渉外での相
手は夫の保夫さんだった。新日鉄だか日本鋼管だか、大企業を中途退職してヤマモトヤに加わ
った。当時のヤマモトヤの特徴として、外人従業員が多かった。コンビニ相手で365日24h稼働
の工場だから、出稼ぎの外人は重宝だったのだろう。現金払いの給料で、袋から10円未満の
硬貨はゴミ箱に投げ捨てていた光景は忘れられない。
ヤマモトヤの担当は、その後3年間続いたが、3年後位に少し変化が現われた。社長が現場
から離れて、渉外の相手をする事があった。何か知らないが、社長の朝食に付き合った事もあ
った。米軍基地そばの店に呼び出されて、でも別に特別な話は無かった。何だったのだろう?
その後、担当地区は変わり、転勤の連続でヤマモトヤの事はスッカリ忘れた。その後、更に金
融破綻、留学、転職。ヤマモトヤのヤの字も、オイラの頭の片隅からも完全に消えてしまった。
昨今のブームである玉子サンド・無人販売の社長・山本幸子氏。オイラがかつて担当した
(株)ヤマモトヤの社長と同一人物なのだろうか? 連日のマスコミ取材で判明した幸子社長の
御年は77歳。オイラが58歳だから、その差は19才。オイラが金融機関に就職したのが22歳だか
ら、当時社長は41歳だったという訳。道理・計算が合ってしまう。まあ、大体顔が同じだ。写真で
登場する旦那さんの保夫氏も一致する。
たった3〜4年程しかお付き合い期間がない間柄でしたが、当時を思い出させてくれて感謝して
います。綾瀬市大上にあった工場は、外階段も床も油でツルツルしていました。当時、居留守
みたいに電話注文を断ったヤマモトヤのサンドイッチ。バチなのかな? 今じゃ、そう簡単にヤ
マモトヤのサンドイッチは買えません。
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